発刊に寄せて
平成六年七月
過去、そして現代、歴史の連綿性の中にあって我が町もその歴史を歩んできました。先人の歩んできた道とその心を学び郷土に誇りを抱き、さらに未来に向け希望をもって町づくりに励んで行きたいものだと願って止みません。伝統文化の保護と継承、そして失われつつある心の回復に向けよりよき社会の実現と次世代を担う青少年にその心を伝えていきたいとも念じております。
会報名は会員と相談の結果、「永(はるか)」と致しました。
歴史の永久、会の永遠、そして永田先生の「永」とも兼ね合わせ最もふさわしい会報名だと自負いたしております。手作り編集、お金を掛けず編集委員である会員が一生懸命その作業に励んでいただきました。感謝の念に堪えません。併せ原稿を書いていただいた会員にも感謝致しております。
平成十三年度は当会にとりましては記念すべき年でありました。
ふくしま歴史名所双六」そして
最後になりましたが当会報は歴史研究会という堅苦しい前提にとらわれず、会員日々の思いや考え方、あるいは歴史観等々、柔軟な会報として歩んでいきたいと思っております。第二回刊行に向け

会が受賞した平成13年度「北のまちづくり賞」奨励賞
文部科学大臣より
地域文化功労の表彰を受けて
本会顧問 永田 富智
去る十一月六日の新聞で私が地域文化の推進に功労があったとして文部・科学大臣より表彰されることになった事を報じた。北海道からは一団体、二個人ということであった。
私の場合は北海道の歴史研究の推進や普及、北海道文化財保護協会の役員を十六年間勤め、文化財保護思想の啓発に努力したことが認められたという。
私は生涯最大の喜びをもってこれを受けた。それは国が私の地域に於ける文化活動を認めてくれた事です。そこで非常な感動をもってこれを喜んだ次第です。
私の父は
菊香る十一月十三日正午東京千代田区の如水会館では全国表彰者十七団体、六十六個人の一人として池ノ坊康子文部・科学政務官の手で表彰状の授与され、これを拝受し、正に今までの緊張が解けほごれて、正に我が事成れりの想いで家内と二人で帰って参りました。
全くの無学の私は、良き師、良き友を得てその協助によって今日までを過ごして参りました。その最初の出合いは市立函館図書館長の岡田健蔵先生、さらに先生を通して宮崎郁雨(啄木の義弟)阿部龍夫(函館中央病院長)、越崎宗一(小樽、郷土史家)等がおり、さらにこれら先生から高倉新一郎先生(北大教授)をも知るようになりました。
昭和三十八年以降十三年間札幌市で新北海道史の中・近世担当の編集員として正に血みどろの闘いでした。何せ無学の私に、近くに居る編集員は大学教授やドクターコースを取った人達である。とにかく十三年の研究、執筆生活は容易なものではなかった。
昭和四十九年新北海道史の中・近世編が一番早く終了したのを契機に松前に帰ることにした。私は郷土への愛着が強く、私が松前に生きた証を残して死たいという強い願望があったからである。幸い町は教育委員会に文化財課を置いて福山城跡の保存管理計画の策定と実施に当った。昭和六十年定年退職したのち町史編集長として十三年勤め「松前町史」の全巻を完成させた。
この折、
一、編集刊行年次計画を厳守する。
二.史料蒐集は効率的に行ない、経費の削減を図る。
三.編集員は他市の学識者を避け、地元有志を育成し、将来これらの人が
四.町史編集を機に町民が町史に関心を持つよう配慮し、できれば研究団体を造り、愛郷心の涵養に努めたい。
ということであった。幸い編集員には金沢秀一氏、常磐井武宮氏、笹森幸雄氏等を得、さらに町職員では
町史の刊行事業は平成九年三月予定通り史料編一巻、通説本編二巻、概説の四巻を刊行して完了した。この作業中に是非町史研究会を作り、
特に小笠原会長は非常に多忙な身でありながら必ず例会に出席され、会員を激励されている。特に私は町史編集中肺炎を患らい重症陥りましたが、先生は夜中にわざわざ往診をして頂き死地を脱しました。私にとっては正に生命の大恩人であります。
私の活動とこれを支えて頂いた皆さんの努力が、今回地域の文化活動の功労を国が認め、文部・科学省大臣表彰となったものだと確信しています。私にとってこの表彰は望外の喜びであり、会員各位に深く感謝いたします。

「永田富智先生の文部科学大臣表彰受賞を祝う会」永田先生御夫妻と会場風景
会報発刊に寄せて
松前の小史を探る会代表宮武 国枝
この度、
貴会は、立派な男性陣が多く所属しておられその行動半径も広く、会の存続に何よりの力強さを感じられますと共に、学ばれた郷土史を社会に教育の現場にと見事に還元されておられます。又数少ない女性陣の地道な努力も実った結果でもあろうかと想像致しております。どうぞ今後もこの会報発刊を機に更に大きな進展を御祈念致し挨拶といたします。
移住一年の歴史
浅野 和雄
私がこの町に来て二度目の秋が来た、千軒岳の裾野も紅葉に染まりその真直中に埋もれるようにして生活している。
当初はチッポケで静かなだけの田舎町を見付けたと思ったが、今ではとんでもない町に来てしまったと思っている。
私が過去に住んだ町では、歴史とは見学、見物に行くものだった、しかしこの町では至る所に歴史が埋もれている、遺跡、遺構、語りべ等、次々に耳にし目にする事が出来る、この町はとてつもない宝の山を持っている、しかしその宝は日の目を見る事無く眠り続けているだけに思える。
私は華やかで人目を引く歴史よりも、草生す歴史が好きだ、永久に消耗する事無く、年月と共に価値の高まる財産をこの町は如何活かして行くのだろうか、活用と保存とは相反するところも有るが、この歴史と共存する方法は無いものだろうか、難しい事はともかく私は思いっきり歴史を楽しむつもりで居る。
折しも町史研究会なる会に入会させて頂き、そこに大勢の学徒が居る事にも驚きがある。
私も学ばなければならない、学ばなければ歴史の隣に住む事は許されないのではと思う。
良き師、良き学友との時間は楽しいものだが、しかし辛い面も有る、何せ一度や二度の講義では身に付かない頭脳なりやが問題なのだ。
雑 感
池田 龍夫
この世界に、もし明日や、未来が、希望通りに変更出来るとしても、過ぎ去った世界は、取り返すことは出来ず、打ち消すこともできない。
只その事実として残り時間をかけて忘れ去られて行く、だれも見た事のない遠い過去は特に曖昧と加わって現代人の傍らには近づかない、だが、未来を求め現在を生きて行くには欠かせないのが、先人先達の偉業であり、残して呉れた大切な遺産であると思ふ。
その工程を、思想を含めて解き明かす処に明日への示唆が観えて来て歴史の大切さが理解できると思ふ。
一日でならなかった「ローマ」のそれ程でもないが、この小さな町にも大変な時間と場所をかけて今日が成り立って居ることが明日へ未来へ続き引き継ぐ現代人の重大な責務が課せられ居ると思ふし重く感じられねばならない。
幸ひに卓越した講師先生の豊富な知識の中から恰も歴史上の人物が顕れてきそうな微に渡る手解きが、又一層と勉強の場を面白くして呉れて居ると思ひます。
永遠に消え失せない昨日のためにも今日を大切に生きたいと思ひます。
町史研究会との出会い
磯谷 ミツヱ
数年前の教育委員会主催の町史の講座が始まった時からです。主人の転勤で福島を出てから二十三年ぶりに帰った故郷です。昔でゆう二昔がすぎてやはりずい分変わってたように思います。世代も若い人に変ってた事と思います。
もともと歴史は好きだった事もあり早速申込みました。生まれた土地の歴史を知ることの興味もありました。
一つには松前にあるお墓に安政の頃の年代のもあり古いんだなと思ってた事もあります。もう一つには主人が先祖をたづねてみたいと話してた事もあります。
古い戸籍をとってみたら、旧館藩藩卒の二男を養子となってる事等がわかりました。今に続いているのも歴史と思います。こうして永田先生のお話しを聞くと又一そう楽しみになります。
歴代松前藩の流れ等古い事もその時代時代の生活が時代劇に出てくる様です。町史がもとで今松前の白鳥日誌の古文の講座に行ってます。
松前神楽や、生活の様子が百年以上も前の事が目の前に出てくる様です。候文はまた楽しみです。福島の事や
私と歴史講座
小笠原 実
私は町の招へいを受け、平成2年9月に生まれ故郷
その頃、
ちょうど私より半年早く帰郷し、福島大神宮の第16代宮司となった
永田先生の手書きの資料は、その都度テーマが異なっていたが、古代の福島から始まって、中世・近世の福島、函館戦争の舞台となった幕末から明治維新、そしてニシン漁の豊凶で町の様子が随分と変わっていった明治大正の福島など、約2時間の講座は、日中の仕事を終わって、夕食も食べていない私にはちょっとつらかった。
今思うと、どうして休むことなく出席し続けられたのだろうか。道南十二館のひとつである館崎の『穏内郡の館』のこと、吉野教会の円空仏像のこと、殉教キリシタンの聖地としての千軒、そして金山番所のことなど、それまでほとんど知らなかった町内の、“歴史”が自分のすぐ身近にあることを体感できたからだろうか。肉体的、精神的に病める人間を診て、その人の回復の手助けをする、人間の弱い側面に向き合う職業をしている私だから,貧しくも、力強く、したたかに、工夫を凝らして文明を築きあげてきた先人の強者の人間の“歴史”に魅かれたからだろうか。
北海道の和人の歴史は、道南の地から始まったわけで、松前を中心に史跡も多く、そうしたひとつひとつの郷土史を独特の語り口調で、丁寧に、よどみなく、しかも正確に話される永田先生の人柄のせいなのだろうか。先生が四半世紀をかけて研究してきた、蝦夷キリシタンについて書いた著書『えぞキリシタン』(講談社刊)を読んで、幼い頃から歴史に興味をもち、小学生の時に近くの川床で見つけた古銭を集めたことで、市立函館図書館の岡田健蔵館長はじめ学者や郷土史家との出会いをし知遇を得たことから、自らも真しに郷土史の普及に努めるようになったという永田先生の生きざまに魅かれたからだろうか。
それから数年たち今では年1回催される道南や東北地方を旅する『歴史探訪』で一緒になる、松前町の町史に親しむ会や小史を探る会の、年代も職業も異なる多くの会員と出会うことができたし、町史研究会として毎月1回行われる歴史講座に参加しながら、私なりに興味の持てる郷土史を少しづつでも学んだり調べたりしていこうという自分を見つけている。今では、大学で学んだことや、職業としている仕事とは全く異なる内容である『歴史』講座が私の交友範囲の幅をより大きなものにしてくれていることに感謝している。
文化庁の朴念仁を叱る
金沢 秀一
この度、永田富智先生が平成十三年度地域文化功労者として文部科学大臣表彰の栄誉に浴されました。
はなはだ喜ばしい事で、十二月八日の受賞を祝う会には大勢の人がご臨席して、盛大でありました。しかし、小生は宴のたけなわに突然、文化庁の朴念仁どもに無性に腹が立ってきました。永田先生のご活躍は、けして地域だけではありません。もっとグローバルなご活躍をしているのであります。
「コタンの口笛」の作者、石森延男氏は、「千軒岳」を執筆するにあたって、永田先生に千軒岳登山の案内をしていただき、また、えぞキリシタンの資料を集めてもらったりしました。昭和四十四年に発行された「千軒岳」の見開きに、永田先生が写した著者と娘さんの写真がのっております。
松前家墓所に三百年余を眠りつづけた織部灯籠を、現代に引き出したのも永田先生でした。この灯籠から、永田先生は、松前にもキリシタンがいたのに違いない、しかも、松前家藩主の一族と大いにかかわりがあるに違いないと、えぞキリシタンの追及を始めました。
永田先生の「えぞキリシタン」は地道な研究の書でありますが、この書に触発されて、飯田三郎氏は「えぞキリシタンの殉教」の作曲を手がけ、また、画家の上野泰郎氏は、「えぞキリシタン殉教図」を描きました。
「新潮」に延々と連載された中村真一郎氏の「蠣崎波響の生涯」にも、永田先生は貢献されました。中村真一郎氏は、夫人同伴で松前を訪れ、永田先生の案内で松前の歴史を勉強致しました。その成果は、第十章の、「松前藩とキリスト教」「十三世道廣」「降福紅夷事件」、第十一章の「家老東奔西走」等に克明に記されております。
蠣崎波響に関しては、永田先生も、松前絵師「蠣崎波響伝」を北海道新聞社から発行しております。蠣崎波響といえば、「夷酋列像」を描いた松前藩の家老であるという認識しかなかった小生は、この書によって、家老でありながら、画人でもあり、また近世を代表する詩文の大家であり、さらには、全く不可能とされた梁川移封から蝦夷復領を実現した政治家でもあったことを教わりました。ワイマール時代のゲーテを彷彿させます。ゲーテは政治に絶望して、本来の詩人に戻りましたが、波響は、松前藩が旧領に復すると、藩の改革の先頭に立って努力しました。
蝦夷地の小藩の家老でありながら、北の貴公子として、京洛の当時一流の文人墨客が、波響を厚遇しました。碩儒皆川洪園、異端人長澤蘆雪、志士高山彦九郎、前衛詩人六如上人、菅茶山、木村蒹葭堂錚錚たる交遊者であります。近世において、北辺の一貴人をかくも厚遇しておるのに、現代、北辺の郷土史家永田富智先生に対する文化庁の待遇は解せない。もっとグローバルな表彰をすべきである。
思 い 出
金谷真理子
永田先生を講師に迎えた教育委員会主催の「歴史講座」が初めて開催されたのは、もう何年前のことか記憶も定かではありませんが、その後今の形の「町史研究会」が結成され現在に至っています。
私は会設立時からの会員ではありますが、永田先生のお話しを聞くだけが楽しみというお客様気分の不真面目会員です。しかも、先生の貴重な講義が頭の中にとどまらず、ほとんど忘れてしまうのです。(先生、ごめんなさい)
でも、北海道の歴史については生き字引のような先生のお話しを聞くチャンスを逃してはもったいないと思い、不真面目ながら会員として今も籍を置かせてもらっています。
私が歴史らしきものに漠然と興味を持ったのは、20代後半に奈良・京都へ一人旅をしたときからのような気がします。京都にはその前にも千葉県在住時に職場旅行などで行ってはいましたが、奈良は初めてでした。観光バスに乗って回るしかなかったのですが、奈良の街にとても親近感を感じ、懐に抱かれているような不思議な安らぎを覚えたのです。一人旅の心細さもあったかもしれませんが、道端の石、草ひとつをみても何かを感じていたような思い出があります。
もう1度奈良だけでもじっくりと見てみたいと思いますが、今度はどのように感じることでしょうか。
その後、兄がいる八戸で、是川遺蹟を見る機会がありました。縄文時代の遺蹟ですが、展示されていた壷、茶碗などが今でも使われているものとして私の目に映ってきました。それを使っていた縄文人とその時の私が千数百年という時を越えて一緒に生活をしているという錯覚に陥ったのです。新鮮で不思議な感覚でした。
私の父は青森県人、母方の先祖にも青森県人がおります。もしかしたら、是川遺蹟の住人に私の先祖がいたのかも・・・などと考えるととっても嬉しくなってしまいます。
私には、歴史的なむずかしいことはわかりませんが、その時代時代の人々が何を信じたり畏れたりしながら生きてきたのか、とても興味を覚えます。
屋 号
川合 正子
以前鹿部町や知内町での屋号調べが新聞で報じられていたが、ここ吉岡でも松浦、吉野、宮歌の沢などでは今でも屋号で呼び合っている。
屋号は同じ地域に、同じ苗字、本家、別家がありその識別のために用いられてきた。
特に漁師は、船体に屋号を印し、お盆、お正月、明神さん参りの時など、大漁旗とともに屋号の入った旗を揚げている。その他にも船具、たとえばウキ、タコ流しのタル・ボンデン、小さい物ではマキリにまで、また家庭においては、漬物樽から加工場のカッパに至るまで屋号が記されている。(墓にも)しかし代替わりになるなど次第に失われつつあり、若い人が多い吉岡中央・旧美山、宮歌埋め立て地区では、ほとんど使われていない。
そこで、今のうちに残しておきたいと昨年春頃から調べ始めた。幸い沢山の友人知人の協力を得ることができ、その人達のためにも何かの形で著したいと今回の会報に載せて頂くことにした。まだまだ十分なものではなく調べ切れないものもあり順次追加修正していきたいと思う。
読み方については「△」ウロコ、ウロク、「 」リュウゴウ、リュウグウなど、本人の読みのままに記載した。地図については、紙面の都合上省略。
屋号で話す会話には、地域の「きずな」が感じられ残してゆきたいものと思っている。
追伸
‥‥‥わが家の屋根のてっぺんにも屋号「 」(カクニ)がついています。通りすがりにご覧ください。
(*川合さんの「屋号」資料は後のページに添付しました。)
無 題
三鹿 菊夫
東北の豪族藤原氏は砂金でその勢力を拡大し栄華を誇った、その砂金の産出場所がこの福島の地であったなんて想像しているとなんとなく楽しいではないですか、しかも「東部ソッコ」 に砂金出るとあるのでないか 「ソッコ」とは自分の出生地の近くである。
しかし「ソッコ」の地区には大きな川は無いそこで永田先生に当時の砂金堀技術を教えてもらい、千軒の山田正則さんに千軒地区の砂金採掘遺構を案内していただき、感覚的なものを得た。
あるときカメラを片手に松浦の川を探索していると、永田先生より教えていただいたとおりの遺構があった。
これを写真に収め後日永田先生に見ていただき現地を確認してもらい「東部ソッコ」この地ですと永田先生がゆっくりした言葉で話したときは感動しました。
何も知らない自分に何回も根気よく教えてくれた永田先生、千軒地区を何度も案内してくれた山田さんこの会報をかりて感謝の気持ち届けたいと思います。
その後自分の若い時(中学時代)よりどうして蝦夷地の人々の着類と中国の人々着類の模様が同じか疑問であったがそれが蝦夷錦、いわゆる山丹であると知った時まだこの地福島のどこかにあるのでないかとたまに探しておりますがいまだ見つけることができず、しかしいつかはこの福島の地で見たいものであると密かに思っております。
もし見つけたらきっとにっこり笑ってボソット誰に話すでしょう、その日を楽しみにこれから町内をウロウロしてみます。(北海道道警察さんけっして怪しい者でありませんその節この会報読んだ皆さん証人になってください。)
それと今一番合いたい人は松前勘解由さんです、合ったら何日もあなたの話を物音立てずに聞くでしょう、藩存亡の危機にあなたはどのようなプロセスで考えその心中はどうだったのか知りたいとおもいます。
それともう一人の話が聞きたいです、三河の国に生まれ七十五歳で秋田市角館で生涯を閉じた菅江真澄さん、本名白井秀雄なんと現代的な名前でしょう、あなたの旅は飛行機も無く、車も無い、まして自転車も無く、寒いときはホッカイロも無くつらい旅の日もあったと思いますが、あなたが見た蝦夷地は「えぞのてぶり」など五冊に記録され多くの歴史を愛する人に読まれ、当時の状況を今だ後世に伝えています。
あなたが最初に蝦夷地を見た時大変な驚きと、新生な感動があったと思います是非あなたの話しを聞きたいものです。
もし、私が聞いたなら
とういうことで最後の閉め言葉を文書にできなくなりましたので第一回目の会報に載せるにはあまり粗文であることをお許し願って終わりにいたします。
眼 鏡
谷 玲子
最近、眼鏡の置き忘れがどうも激しい。というのは、近視である私は老眼も加わって来ているので、家事には眼鏡を外し、テレビ等を見るときには眼鏡をかける…の繰り返しなので、無意識に眼鏡を外しどこかに置き忘れてしまうので、眼鏡探しは日課になっている。眼鏡探しにウロウロしだすと夫は軽蔑の眼差しを私に向ける。
ある時、ふと思いついたのだが、眼鏡を置く時にそばにあるものを頭にインプットさせればいいのではないかと…
早速、翌朝顔を洗うときに洗面台の脇にある洗濯機の上に眼鏡を置き、「洗濯機」「洗濯機」と頭の中にインプットしたのである。
正午になりテレビを見ながらの昼食が始まり、さてと眼鏡は?そうだ洗濯機の上なのだと取りに行ったのだが、無い!「エーッ!ウッソー」
又、眼鏡探しが始まって見つかった場所が鏡台の前である。どうやら顔を洗った後、眼鏡を鏡台の前まで持って行き、化粧水をつけてそのまま家事を始めたらしいのだが、その事はあくまでも推理であってその間の事は全くプッツン状態で、今もって思い出せないのである。
そんな自分が恐ろしくなる今日この頃である。
「中塚橋」
祝詞は氏子より祈願を依頼された神職が神前に奏上する詞である。祝詞作文が神職に課せられ、祈願の主旨や内容が祝詞の中に記され、神職の質が問われるとまで言われる。
先日過去の祝詞を整理していたら、福島大神宮第十五代宮司今は亡き
「是乃處乎嚴乃磐境登祓清米神籬乎斉差立
これのところをいつのいはやとはらひきよめひもろぎをいつきさした
弖招奉座奉留掛麻久母畏伎産土乃大神瀬
ておぎまつりませまつるかけまくもかしこきうぶすなのおほかみせ
織津姫命八街乃大神等乃大前尓斉主
おりつひめのみことやちまたのおほかみたちのおほまへにいわひぬしときわい
武季恐美恐美母白左久千軒乃山乃麓与里流
たけすえかしこみかしこみまうさくせんげんのやまのふもとよりながれ
出留清伎流乃福島川乃川下尓朝日乃伊照留
いづるきよきながれのふくしまがわのかわしもにあさひのいてる
月崎乃里登福島乃町登尓架渡世留橋波志母
つきさきのさととふくしまのまちとにかけわたせるはしはしも
○○○年中塚金十郎伊幾多乃黄金白金乎出
ねんなかつかきんじゅうろういいくたのこがねしろがねをいだ
志弖架設介良礼中塚橋止御名乎称閉弖朝
してかけまけられなかつかばしとみなをたたへてあさ
夕行交布人々利益乎得弖今尓至礼留乎長伎
ゆういきかよふひとびとくぼさをえていまにいたれるをながき
年月乃来経行久随尓雨風尓朽破損比弖
としつきのきへゆくまにまにあめかぜにくちやぶれそこなひて
橋傾伎往来母安加良須危介尓成行乎以弖福
はしかたぶきゆききもやすらかずあぶなげになりゆきをもちてふく
島町乃人々相計相語良比弖改造良牟登杉沢
しまてふのひとびとあひはかりあひかたらひてあらためつくらむとすぎさわ
友太郎氏尓事依左志奉里奴。故杉沢友太郎
ともたろうしにことよさしまつりぬ。ゆへすぎさわともたろう
伊受持弖工事起始米志与里皇神等乃恩頼尓
いうけもちてたくみのわざおこしはじめしよりすめがみたちのみたまのふゆに
依弖打墨縄乃違布事無久取斧乃禍津事無久
よりてうちすみなわのたがふことなくとるおののまがつことなく
比度嚴志久美志久新尓全久架渡志終里奴。
こたびいかしくうるわしくあらたにまたくかけわたしおわりぬ
故喜毘奉里添奈美奉里弖事乃由告奉良久止
ゆへよろこびまつりかたじけなみまつりてことのよしつげまつらくと
八十日日波有礼止母水無月乃七日乃今日乎
やそかひはあれどもみなつきのなのかのけふを
生日乃足日乃吉日止祝定弖御前尓御食御酒
いくひのたるひのよきひといわひさだめてみまへにみけみき
乎始米海山乃種々乃味物乎捧奉里又渡初
をはじめうみやまのくさぐさのためつものをささげまつりまたわたりぞめ
乃式乎母執行比斉麻持弖清々志久祓清米三
ののりをもとりおこなひいみあさもちてすがすがしくはらひきよめみ
組乃夫婦渡里弖幾代朽知果留事無久祈願
くみのめおとわたりていくよくちはてることなくこひねぎ
奉留状乎平介久安介久聞食志弖、今与里後
まつるさまをたひらけくやすらけくきこしめして、いまよりのち
是乃中塚橋乎良伎橋乃可美橋止斉給比弖、
これのなかつかばしをよきはしのうまみはしといつきたまひて、
千町八街往久左来留左行通布諸人等母安
ちまちやちまたいくさくるさゆきかよふもろびとたちもやす
介久栄衣行加志米給比重荷積牟事、満続久
けくさかへいかしめたまひおもにつむこと、みちつづく
登母崩衣破留々事無久暴風吹荒布登母洪
ともくえやぶるることなくあらしふきあらぶおほ
水流礼溢留登母障留事無久恙牟事無久底津
みずながれあふるともさわることなくつつがむことなくそこつ
岩根乃底深久掘立志柱乃動伎傾久事無久打
いわねのそこふかくほりたてしはしらのうごきかたぶくことなくうち
固米多留釘楔乃緩牟事無久堅石尓常石尓
かためたるくぎくさびのゆるむことなくかきはにときはに
幾百年乃後迄母平介久安介久守給比幸給
いくももとしののちまでもたひらけくやすらけくまもりたまひさきはへたま
比弖是乃町乎弥益々尓立栄衣行加志米給
ひてこれのまちをいやますますにたちさかへいかしめたま
閉止恐美恐美母称辞意奉良久登白須」
へとかしこみかしこみもたたえへごとおえまつらくともうす
川原町より月崎に至る福島川の架橋、今は横綱橋と呼ばれているようだが、以前は「中塚橋」として親しまれていた。明治初期ニシン漁の網元として活躍した「中塚金十郎」が私財を投げうって架けた橋で「中塚橋」の名が付された。それ以前は渡し船で往来したのだろうが、激流時には往来もままならず中塚金十郎が見るに見かね村民のためにと生活橋、諸産業搬送橋として建てたのである。
因みに、中塚金十郎本人が実際私財を投げうって架橋したという文献による明確な記録がないのが残念である。
祝詞中では旧来の中塚橋が何年に建てられたかは不明になっており、雨風によって朽ち破れ損ったので改築完成した時の「渡橋式」内容となっている。
改修工事発注は福島村、施工は杉沢友太郎(工事期間中完成を待たずして亡くなったようである)。三組の夫婦が渡り初めをしたようであるがその氏名が記されておらず残念。
吉田町より三岳方面に至る吉田橋は旧松前街道の主要道としてすでに橋がかけられてはいたが、一方昭和二十四年中塚橋の改修完成は当時の村民に新たなる喜びと希望を与えたことであろう。祝詞の中から当時の様子の一端を伺い知ることができる。
「北のまちづくり賞」受賞のこと
中塚 徹朗
郷土の歴史が今現在も“まち”に息づき“まち”の発展とともにあるとしたならどんなに素晴らしいことでしょう。私にとって「
平成7年の夏に行われた「
折しも
このポスター事業がきっかけで「歴史を“行動”すること」その継続の重要性を私は痛感しましたが、そのためには「
《H7年〜H12年「ふくしま歴史名所双六」・「ふくしま方言地名つうしんぼ」・「[2]ふくしま鯨歴史迷路」・「[3]ふくしま鳥おもしろマップ双六」各ポスター制作/H10年[4]江戸期のろし台復元点火事業・千軒金山番所遺構測量調査/H12年
平成13年10月30日(火)ホテルKKR札幌に於いて
このことは私たちのまち
「未来」の
郷土の歴史が今現在もこの“まち”に息づき“まち”の発展とともにある。そんな明るい可能性を感じるのは私だけではないでしょう。(^_^)

「北のまちづくり賞」奨励賞を受賞した「ふくしま歴史名所双六」CD&ゲーム画面
檜山安東氏の成立
成田 民夫
歴史探訪が実施され、松前町史の会員の方々と六月三十日檜山城跡を見学した。
蝦夷地と深い関わりのある津軽安東氏から檜山安東氏への系譜の継承は、戦乱のため史料が散逸し中世の深い闇に包まれている。
鎌倉時代蝦夷管領として蝦夷と夷島を支配していた津軽安東一族に内紛が起こり、津軽地方は混乱状態となった。
十三湊を本拠に日本海海運で強大な勢力を得ていたものの、一族の又太郎季長と従兄弟の五郎三郎季久が蝦夷管領と所領をめぐり同族を巻き込んでの骨肉の争いが数年間続いた。
鎌倉幕府が鎮定に乗り出し和議が成立したものの、幕府の統制力の弱体ぶりを露呈して権威は失墜し、これが引き金となって倒幕運動が強まり、ついに鎌倉幕府は滅んだ。
その後も津軽地方では度々混乱が繰り返され、足利方の安東氏と南朝方に残った南部氏が激しく争い、南部義政に攻められ蝦夷島に落ち延びた安東康季のことが、幕府の最高政治顧問であった満済准后の日記永享四年(一四三二)に記されている。
将軍義教は南部方に和睦を命じ、康季は十三湊福島城に復帰したが、義教の死後再び南部氏に攻めこまれ康季が蝦夷島に逃れたのは嘉吉三年(一四四三)五月のことであった。
二年後康季は津軽回復を図り岩木山麓に館を築いたが、悲願空しくこの地で病死嫡子義季も父の遺志を継いで狼倉館(岩木町)に立て籠もり奮戦したが及ばず南部勢に破れて自害、津軽奪還の悲願は実らなかった。
義季の死によって、長く津軽を支配してきた津軽安東氏の正統は絶え、この後檜山安東氏が興り下国氏と称して、津軽安東氏の系譜を引き継ぐことになったのである。
安東宗家の継承は一族の一大事であり、自害した義季の跡を継いだのは十三湊安東盛季の弟潮潟道貞の孫にあたる政季であった。
政季は田名部で知行を与えられ安東太政季と改めていたが、武田信広、相原政胤、河野政道らと共に支配地である蝦夷島に渡ったのは享徳三年(一四五四)であり、重臣らを道南の十二館に配置した。茂別館を中心とした『下の国』には弟の下国家政を、大館中心の『松前』には一族の下国定季、花沢館『上の国』には蠣崎季繁を配して三守護地による分割統治を強化した。
政季の渡道により、アイヌ社会との亀裂と対立が深まり志海苔でのアイヌ少年の事件を機に紛争の火が燃え上がろうとしていた。
この秋、秋田湊安東堯季の招きにより政季は出羽に渡った。南部氏に備えて北の守りの強化が課題であった湊安東氏と、津軽回復を望む政季の願いが一致して檜山城に入ったため出羽の情勢は緊張した。米代川支流に開かれた山城だが、白神山地を越えれば津軽であり、八郎潟を渡れば日本海に出る。ここから檜山安東氏の歴史が始まる。コシャマインの乱が起きる前年のできごとであった。
ペットの事情
鳴海 宣絋
犬二匹、猫一匹のうち紹介するのは最年長の猫で「サクラ」という。九十年に知内町に生まれ、相当高齢化をしているのとお産をしていないので少子化にも貢献(?)している。ペルシャの雑種というが限りなく日本系に近い、目の前をネズミより小さく、モグラより大きい生き物「ハムスター」が走っても、少し爪を動かして口を「へ」の字にする程度である。(人間界では鈍感という。)生活は几帳面な方で朝・夕の食事と昼寝は欠かさない。(人間界でもこのような光景はよくあると聞く。)生まれながらの寒がりですぐに寄りつく、夏などは湯タンポを抱いているようだ。出張から帰ると土産を待っている子供のように愛想鳴きをする。日本語が言えれば色々な話を聞けるかもしれない。しかし、告げ口がばれると直ちに路頭に迷うのである。人間の言葉を使わないが人間の言うことや心は解っている。これも生き延びる知恵の一つのように思う。年齢とともに病気にもなる「てんかん」と診断されて入院したことがあり、それ以来、物置や押入れを捜し出すと発作が起きる。今では一病息災である。それでも二食・昼寝は続いているので感心している。この根性で長寿社会を歩んでもらいたい。
グットバイ
馬躰 一広
「別れ」、それは悲しくもあり寂しいものである。なぜ別れなければならないのか、出会いが有るからか、それとも運命なのか………。幼年の頃、青年の頃は自分には多くの(何百も有るか)友達がいたものである。その友達もいつかは別れが来る事を知っていたかの様にこの時期、この年齢になるとしみじみと感じ寂しさが一段と身に染みるものである。おれは貴男と貴女を信じていたのにいつの間にか、このような惜別が来てしまったことに心が痛むのである。
その別れも心思いに感じその感情もその時々によって憂鬱になったり、落ち込んだり、寒々としたり、感じ方には人それぞれの違いはあるが、別れるということには間違いがなく、「行くな」と言ったとしても相手には通じなく勝手に出て行くのである「なぜか」…その場所が居心地が悪いのか、それとも、もう何年も付き合っていて友達だったのだからそろそろ俺の自由にさせてくれというのか。「そうか自分は腹を決めた」行く者は追わない、そして探さない、又、来たからといっても寄せないし、口も聞いてやらない。どこにでも行ってしまえこのやろう。「俺の気持ちも知らないで」何か歌の文句みたいだろうがそれも本心でもあり、真実なのである。
最近は朝起きると一緒に寝てるし、風呂に入っても温水に浮いている、いつも近くに居るのに寂しい「春には花や草が芽を出すのに出ない」「夏にはまともに日が降りかかる」「秋には落ち葉が乗った事も」「冬には寒さが一段と感じ雪も直接肌に湿る」その様に季節感を感じながら、しみじみ薄くなった頭部を鏡に写す自分である。髪は長い長い友達とは思っていつまでも黒く又は白く成っても頭部に有ってほしいものだ。髪は長い友と書くが自分本意ではあるがあってほしかった、自分勝手だったか…今更「どうにもとまらない」(山本リンダ)もうおしくはないが長い間自分の体の一部であったはず、残念だがそれが現実なのである。さびしい さびしい
髪よグットバイ
七飯町 林 吉彦
北海道の最南端に位置し、暖流が洗う
加えてもう一つ、多くの鳥に出会える大きな要因がある。それは、北海道の成り立ちに起因する。現在のような北海道が形造られるまでにプレートの移動や数度にわたって繰り返された氷河期など、長い地球の歴史がある。
今から約6万年から1万年前の最終氷期には、海水面が100bから120bも下がり、白神岬と竜飛岬の間は目と鼻の先まで近づいた。二つの岬の間にはちょっと大きな川が流れているようだったと思われる。これに対し、汐首と下北側は海が深く、海水面が下がっても対岸との距離はあまり縮まなかったようだ。鳥たちは、海が浅い福島側から竜飛を結ぶルートを渡りのコースとして選んだのである。
これに加えて、西風が多い季節風も鳥たちの渡りを助けている。地図を開くと、
このように鳥たちは何万年もかけて少しでも安全で効率的な福島・松前を渡りのルートとして見つけだし、子孫に伝えてきたのだ。
江差町の海岸近くに道路の改修の後に残った猫の額ほどの小さな小さな葦原がある。その葦原でオオヨシキリが毎年繁殖している。その中に環境省の標識を付けた同じ親鳥が何年も続けて見つかった。消えかかった葦原だけを頼りに東南アジアと北海道を往復している野鳥がいることに、その記憶の正確さと自然は人間だけのためにあるのではないということを教えられた。
とにもかくにも
北海道水産林務部栽培振興課
「
ひとつ、ひとつが驚きの連続でした。
開拓の歴史100年、これが北海道史と思い込んでいた意識の変換です。
日本の歴史の中にしっかりとその役割を刻み込んでいる。それが
「大神宮の祖先は、琵琶湖周辺の一城主が渡ってきたと言われているのですよ」町の生活や辻々に歴史の痕跡が刻み込まれます。
その痕跡の丁寧な集積が
誰が言ったのでしょうか。「歴史は決して繰り返すことはありませんが、同じ様な経験は歴史の積み重ねの中に必ず存在する」と思うのです。歴史を見ることは、将来を見据えることと思います。
私の
福島の町を営々と綴り続けた人々に思いを寄せながら、永田先生への感謝とお祝いの一文とさせていただきます。
わたしと開陽丸
山下 章
現在江差町には明治維新最後の戦いである“箱館戦争”の時の旧幕府軍軍艦「開陽丸」(二八一七排水トン)の実物大が復元展示されている。
「開陽丸」が“箱館戦争”さなかの明治元年(一八六八)十一月、当時としては我が国最強の軍艦といわれながら大きな戦果をあげることなく不運にも江差港内において座礁沈没したということは、この戦局の勝敗を左右するほどの重大な出来事であり、また、今もって“悲劇の軍艦”といわれるゆえんである。
一方、「開陽丸」の発掘の方は、戦前・戦後を通して民間人等による一部発掘がなされてきたが、昭和四九年(一九七四)からの本格的な学術発掘調査は、遅きに過ぎた感さえあったが、これが我が国最初の<海底考古学>という新しい分野の確立に大きく貢献したといっても過言ではない。
そして私にとっては、この「開陽丸」という名は、本来の調査研究の対象物とは別に、自分の進むべき道を暗示してくれた船の名として、深く心に残るのである。
と言うのは、私はこの「開陽丸」が大きな役割を果たした“箱館戦争”というものに興味を持つことにより、歴史というものを本格的にやろうと決心したからである。
そして東京のR大学史学科に入り四年間というもの未熟ながら自分なりに、納得のゆくまで歴史というものについて諸先生方から教えを受け、そのまとめとしての卒業論文は以前から考えていたテーマ『箱館戦争における榎本武揚の役割り』というものを書き上げ、自分なりのこれからの研究テーマの序論としたのである。
そして現在の私があるのは、この「開陽丸」が原点であり、一生忘れることができない船である。<了>
出会い
米塚 誠
父を亡くし、遺品・その他の整理を終えた頃、自分では気付かなかったが気分的に落ち込んで居た様で、妻に気分転換にと教育委員会の「歴史講座」を勧められた。(テレビ、小説等歴史物と言われるジャンルは好きだった)。講座に出席して驚きの連続、当然の事で有る。何も知らないのだから、休憩中の廻りの会話「難しいことは解らないが…」と言い乍ら私には理解できない話をして居る。その日の講義「藤原三代と義経渡道伝説の意味」。家でテキストを読み返し、永田先生の講義内容を反復する、漠然と興味が湧いて来た。次回も出席して見よう、そう決めたら楽しく成ってきた。
二度目からは、他の出席者を観察する余裕も、私より年少と想われる人は三人程で、他は年長者ばかり。講義が始まる迄テキストを見ながら、専門的(私にはそう想える)な話をして居る。そんな状態で回を重ねる内に「町史研究会」の在る事を知り、無謀にも入会を頼んだ。以来「町史研究会」の末席に名を連ね現在に至る。
これからも無理をせず、急がず、時間の許す範囲の中で郷土の歴史の一端でも学びたいと思って居る。